64歳でも火炎噴射!稀代の極悪ヒールレスラー・ミスター・ポーゴの足跡を辿る

大仁田厚の終生のライバルで、6月23日に急逝した“極悪大王”ことミスター・ポーゴ(本名・関川哲夫=享年66)の追悼マッチが、超戦闘プロレスFMWの7・15新木場1stRING大会で行われることが決まり、話題になっている。


ポーゴは22日、埼玉県内の病院で腰の手術を受けており、全身麻酔の最中に不整脈が起きて脳梗塞を発症。県内の別の病院に搬送されたが危篤状態に陥り、23日午後0時21分に帰らぬ人となった。


6月24日、新木場1stRINGで開催された「大仁田厚&中野たむプロデュース興行」では、ポーゴの弟子筋にあたる保坂秀樹が師匠ばりの顔面ペイントを施して試合に出場。彼の遺志を継ぐことを表明した。


大仁田は「7・15新木場で、大仁田軍 VS ポーゴ軍の試合をやりたいと思います。メンバーは未定ですが、ポーゴさんに育てられた人がたくさんいる」とコメント。この日はポーゴの追悼セレモニーが行われ、10カウントゴングで冥福を祈った。


■生涯ヒールを貫いた流転のプロレス人生

1951年2月5日、群馬県伊勢崎市に産声を上げたポーゴは、恵まれた体躯を活かして小学3年から柔道を習い、中央大学中退後の1971年に大相撲・二所ノ関部屋に入門。四股名は本名の関川で、7月場所で初土俵、番付に載った翌9月場所では序ノ口優勝したが、ひざの故障により廃業した。


その後、中学の同級生で柔道仲間だった浜田広秋(後のグラン浜田)と共に、旗揚げ間近の新日本プロレスに入門し、72年3月20日、足立区体育館の藤波辰巳戦でデビューしたものの、旗揚げシリーズのみで退団。翌73年にアメリカに渡り、フリーの一匹狼として再出発を図る。


殴る蹴る中心の喧嘩風ショーマン・スタイルを習得したポーゴは、テキサスからプエルトリコに至るテリトリーを転戦し、ザ・ファンクス、ダスティ・ローデス、ハーリー・レイス、リック・フレアーといった大物レスラーと抗争を展開。レイスとの決着戦は金網デスマッチで行われ、満員の観客を動員した。


当時のリングネームは、「ミスター・セキ」だったが、テリー・ファンクが主催した興行に参戦した際に、日系レスラーの大先輩であるグレート東郷にあやかり、「ミスター・トーゴー」を名乗った。しかし、実際には対戦表に「ミスター・ポーゴ」と誤記されてしまう。ポーゴは、テリーに誤記であると抗議したが「俺がこの名に命名した」と押し切られ、このまま「ポーゴ」の名を用いるようになった。


85年11月、古巣の新日本プロレスに13年ぶりに参戦し、ケンドー・ナガサキとの“東洋鬼コンビ”で「IWGPタッグリーグ戦」に出場。ナガサキとは翌86年7月に藤波辰爾・木村健悟組の持つIWGPタッグ王座にも挑戦した。


90年6月、大仁田厚が立ち上げたFMWに参戦し、プエルトリコ軍団を結成して大仁田やターザン後藤と血で血を洗う抗争を繰り広げた。翌91年、内紛からFMWより分裂したW★INGの旗揚げに参加し、松永光弘らと、より過激なデスマッチ路線を推進。「デスマッチの帝王」の称号を欲しいままにした。代名詞となった火炎噴射攻撃はこの頃から使い始めた。


W★INGから93年に単身離脱し、FMWに復帰した後は、火炎噴射に加え、鎖鎌で相手を切り刻んだり、チェーンで首吊りにするなど、凶器(本人いわく「武器」)を用いたヒール殺法で、対戦相手や観客を恐怖のどん底に陥れる。


その後、WAR、みちのくプロレス、IWAジャパン、大日本プロレスなど各インディー団体を股にかけて活動していたが、2000年1月、北関東を中心に活動する地域密着型プロレス団体のWWSを旗揚げする。


いにしえのインディー風景を色濃く残しているWWSは、屋外を走りながら闘う「マラソンマッチ」や「画鋲3万個ロイヤルランブル」など破天荒な闘いを繰り広げていたが、2002年8月、場外乱闘の最中に近隣住民の通報によりパトカー2台と警察官4人が駆けつける騒動を起こす。その際、ポーゴは警察にまで火炎を噴射し、スポーツ新聞の1面を飾った。


稀代の極悪ヒールレスラーとして、日本プロレス史にその名を刻んだポーゴは、徹底したプロ意識の持ち主で、64歳になっても火炎噴射をし続けた。7・15新木場大会では、彼に育てられたレスラーたちの反骨精神溢れる闘いを目に焼き付けたい。

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